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タイトル(最終版)見出し-話のポイント(最終版)話のあらすじ(最終版)
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A君
22歳
両親は日本人ではないけれど、心は日本人の僕・ずっと普通に日本にいると思っていた
・突然のタイへの移動
・泣きたくなったタイでの学校生活
・タイで生き抜くために考えたこと
タイ生まれ。タイ人父と中国人母を持ち、4才で家族で日本に移住し、日本の幼稚園、公立小・中学校に通う。日本に永住するつもりだった両親の方針で、学校だけでなく家庭内でも全員日本語で生活するも、日本での永住権取得困難、東日本震災などにより両親の決断で、Dさんが中2になってまもなく家族でタイに移動。タイではやっと見つかった中等学校でゼロからタイ語を学び、3年間ほぼ毎日放課後にタイ語の個人授業を受け、大学入試を突破。現在、タイの国立大学政治学部3年生に在籍している。が、今も「考えるときは日本語」で、「母語が日本語」、「日本は『故郷』みたいな感じ」と思っている。大学の授業で必要なことがタイ語で理解できないときには日本語で調べたり、理解したりしている。時事ニュースや小説も日本のものをよく読んでいる。 将来は、まだ具体的なプランはないが、生活のベースはタイがいいかなと思っている。
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B君
27歳
僕の中にある、日本、タイ、アメリカ・移動しても学校が辛くなかったわけ
・親や友達と離れてでも来たかったタイ
・アメリカが辛かったのは・・・
・日系の会社での自分のあり方
日本で生まれ、5才でタイに移動。小学生の間にタイ→日本→タイと移動し、タイで中学校卒業後にアメリカで高校・大学を卒業、現在はタイの日系ITコンサルタント企業に勤務している。アメリカでの高校時代を大変だった記憶として振り返る一方で、タイ・日本の移動を繰り返した小学校時代は「苦労した覚えはない」「嫌なことはなかった」という。言語的なハンディキャップがありつつも友達と先生に恵まれた日本の小学校時代。しかし、その楽しさを手放して、親と離れてでもタイに戻るきっかけとなった「大家族」へのあこがれ。アメリカ時代につらかった「バス通学」と、「あまりわからないけどつらくなかった」授業。言語・文化圏を移動する苦労とは、本当に「言語の問題」なのだろうか?何度も移動を経験した元子どもの語りをきっかけとして、言語・文化圏を移動する子どもの成長と苦労について考える。
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C君
25歳
今の僕を作ったもの、「野球」と「言葉」と「親との関わり」・移動による喪失感―野球との決別
・言葉へのあくなき興味―3か国語が母語と言えるようになるまで
・親との関わり―家出、放任、信頼を経て今思うこと
日本で生まれ幼稚園でタイ。小学校で再び日本に移動。小学1年で野球を始めメンタルが強くなった。しかし、6年になる時にタイに移動し野球ができなくなった。その喪失感はあまりにも大きく、言葉や学校文化の変化はその打撃に比べれば大したことではなかった。タイではバイリンガル校に入学。英語は小2でハリーポッターを辞書片手に読んでいたほど好きで、3か月でタイ語にも慣れた。大学は国立大の政治学科に進学。授業料を稼ぐため大学2年で通訳・翻訳の仕事を始め今は本業。常に新しい課題はチャンスと捉え挑戦。今は日本語、タイ語、そして英語を使いこなす。語学は好きだったが塾に行ったわけではない。中学時代は親に反発。子どもは親の言う通りにはならない。しかし、根底には親が信頼して失敗しても受け入れてくれるという安心感があり、それが自分を作った。C君から大人達へのメッセージ、また独自の言語システムを聞く。
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Dさん
16歳
「一人で生きていけ」それが先生のメッセージ?・幼稚園で初めて出会った日本語の世界
・小3で感じた勉強の困難さ
・「一人でも生きられる」に対して今思うこと
タイで生まれ、1歳の時に父の仕事の都合でフィリピンへ。2歳でタイへ戻り、地方の幼稚園を経て、バンコクの日系幼稚園へ転園。そこで初めて日本語がたくさん話されている世界と出会う。言葉に困難さを感じたが、ダブルの友達ができて乗り越えた。小中学校では友達からダブルというだけで悪口を言われたり避けられたりしたため、あまりいい思い出はない。小3の頃の勉強で、理科は分かるが、国語や算数では特に文章問題になると理解が困難だった。小6の始業式後に行われた教室活動で友達とペアが作れなかった際、担任に「今一人で立っている人は、一人でも強く生きられる」と言われ戸惑う。中3では友達に恵まれ楽しい学校生活を送る。卒業後、通信教育の高校へ。Dさんの話を聞き、学習の困難点、学校生活における環境、友人や先生の意味について再考したい。
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Eさん
母親
親の思い込み、子どもの気持ちとのずれ  
今考える親の役目
・日本人のいない地域で漢字呪縛に陥っていた私    
・日本語学習とは。。。必死だった私の勝手な「思い込み」
・結果 息子は日本語嫌いに     
・好きから始まった子どもの学び
タイ人の夫の仕事で息子と娘と共にタイ国内(日本2年を含む)の引っ越しを繰り返す。日本人がいない環境で子どもの日本語習得を必死で目指した。日本語習得にはまず漢字。漢字が読めてこそ読書が進むという「漢字呪縛」があった。だからアニメや漫画も禁止。しかし、小4の漢字辺りから息子が悲鳴をあげ始めた。漢字がただの記号にしか見えない。暗記も限界。そんな息子のSOSに気づかず私はそのまま漢字学習を続行し、ついに息子から日本語は嫌いと宣言された。途方に暮れていた頃バンコク近郊へ引っ越し、大量の漫画をもらった事を皮切りに娯楽を解禁した。それがきっかけで息子も娘も今までと違う切り口から日本や日本語に興味をもつようになった。今息子は日本の江戸時代、娘は平安時代に詳しくなった。なぜ漢字呪縛があったのか、なぜ娯楽を禁止したのか。親の思い込みに潜むものは何か、今改めて親としてやるべきことが何か考えたい。
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Fさん
母親

母親が語る、母と娘たちの移動物語
・私は、遅れている子?
・「虫ケラ」のような私
・ありのままの私でいられる場
・故郷のない私たち
(私=娘)
大学を卒業後、親の友人の紹介でドバイで働く。ドバイで知り合った夫(日本人)と結婚し、夫の仕事の関係で、シンガポール、フィリピン、シンガポール、日本、タイと移動を繰り返した。現在中2の長女はフィリピンで生まれ2歳前に日本へ。入園をきっかけにシンガポールに渡りインター幼稚園に1年通ったのち再び日本へ。幼稚園文化の違いから長女は「失敗」を繰り返し、母親は半年間幼稚園の親達に謝り続ける日々を過ごす。母国にいたこの時期が母親にとって一番辛い時期だった。長女が小学校に入るタイミングでタイに転任。日本人小学校卒業後、本人の希望でインター校に編入。これまでに4度にわたり国の移動をしてきたが、長女にとっては幼稚園と中学での学習言語の変化が大変だった。しかし、ありのままの自分でいられる場所があった。「日本は行く場所」であり「故郷がない」と言う娘たち。移動を繰り返すことがどのような価値観を生んだのか。
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Gさん
父親
父親が語る子どもの成長
-息子とこれまでの経験を振り返る
・子どもは日本人学校へ、と思っていた
・英語学習環境で育った息子の成長とそれを支えたもの
・息子に話を聞いて知ったこと、今思うこと
インター校日本語幼稚園に勤務。しかし夫婦ともに英語が苦手なこと、地方出身の妻にとってバンコクの学校は不安だったため、子どもは当然日本人学校へ入れようと考えていた。しかし妻や子どもが望み、授業料補助もあったため勤務校に就学させることに。息子は英語ができなかったので不安だったが、担任に相談すると「あの子なら心配ない、私が面倒をみる」と言ってくれた。最初は苦労したが、ダンスや、生徒会活動など楽しく学校生活を送りカナダに留学した。今はタイの会社のインターンを順調にこなし楽しそうだ。学校生活を楽しく積極的に送れたのはどうしてだったのか。本当に問題はなかったのか。本人はどうなのだろう。今夏帰省した息子に言語マップや関係性マップなどを描かせながら話を聞いた。親の知らなかったことも、勝手に解釈していたこともあった。親子で振り返ったこれまでの父と息子の経験を報告する。
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